殉教と捨身
今朝,サンテレビでイスラエル巡礼の番組を見た。その中で,ユダヤ人達の迫害の話が出てきた。
そういえばキリスト教徒は本当に殉教者をたくさん出しているなぁと素人ながらに考えていた。キリストの12使徒のそのほとんどが殉教と言う形で亡くなっていることも知っている。また外国の事は分からなくても日本国内のかつてのキリシタン弾圧の話は誰もが社会科の授業で学んだはずだ。
そもそも宗教に殉ずる,殉教とはどんな形式があるのだろう。
素人の僕の考えとしてはまずキリスト教の場合一つはその宗教活動の為に攻撃を受けて死亡する場合。次に誰かから改宗を迫られて拒絶したので処刑される場合。いずれも外部からの圧力によって他殺されるのであって,決して自殺ではない。
所が一部の過激派のイスラム教の信徒による自爆テロはジハードで死んだ者は天国へ行ける,という目標があってそれを見越しての言うなれば自決である。
いずれの形にせよ,人はその信心の為に自らの身を結果として捨てることになりかねないこともある,ということだ。
我々日本では正月は神社へ行き,寺で葬式をやり,教会で結婚式をする。一応仏教徒ではあるがその辺りの行動が滅茶苦茶だ。昼間に突如現れるものみの塔の会員や選挙のお願いに現れる創価学会員といった普段から宗教活動をしている人もいるが,ほとんどの日本人は自分が普段からどんな宗教なのか分からない人も多いだろう。たとえば仏教,と答えることは出来ても家がどんな宗派なのか知らない人ばかりだと思う。たとえば家族の中に死人が出て葬式のときに初めてどのお寺の世話になるかで決まってくるというくらいだ。
そんな宗教意識の低い仏教徒の日本にも昔は殉教に類似した形の苦行があったのだ。
有名なものだと『即身仏』がある。
これは文字通り『即チソノ身ガ仏トナル』。飢えや病に苦しむ民草を救う為に自ら苦行を課して生きながら仏となるのだ。つまり荒行で食事制限をして体から水分を抜き,ミイラに近い体に自分で作り変え,土中にて読経をしながら息絶え,やがてそれが即身仏となる。これを死後防腐処置を施す事を目的にしたミイラと同様だと思ってもらっては困るのである。他にも自ら油をかぶり点火して火葬にする焼往生,滝や崖から身投げする『投身』『入水』往生もある。
これは昔,お釈迦様の前世が飢えた虎の為に身投げをしてその肉を与えたと言う捨身飼虎の精神に基づく。
つまり自らの体を犠牲にして苦しむ衆世を救うと言う。いわゆる自分で自分を生贄にして我々民衆を救ってくれるのだ。壮絶な愛情に恐ろしさすら感じてしまう。

殉教,という意味では仏教には少し変わった風習がある。今朝,僕はその言葉を初めて知った。
『補陀洛渡海』という。これは僧侶を船に乗せて南の海にあるという補陀洛浄土(極楽浄土か?)を目指して渡海させる。
方法としては,箱船の中に僧侶とわずかな食料を乗せて中から絶対に開かないようにロックをして南側の海岸から大海に放すものである。窓一つないし,厳重なロックをされた箱の中で読経を繰り返し,船が補陀洛浄土に行くことを目的とするのだが,実際は飢え死にするなり溺死するなりするのをじっと待っているのと同じである。運がよければどこかに漂着して救出されることもあっただろうが,なかには金光坊という僧侶がいて,死ぬのが怖くて船を脱出してしまったので殺されてしまったらしい。
こうなるとなんだか即身仏と話が違うような気がする。これは明らかに自分の身を犠牲にして補陀洛渡海したのではなく,無理矢理強いられた感じがする。
これでは自らの捨身というより『イケニエ』だ。同じ宗教を信じる者がその人を殉教させるように無理強いする。こんなひどい話があるだろうか。
もちろん自らの強い意志で極楽浄土を信じて補陀洛渡海を決行した人もいるだろう。しかし誰かに無理強いさせて命のかかった捨身修行をさせることほど卑怯で不快なものはない。
僧侶に嫌なことを全て背負い込ませるつもりだったのだろうか。
仮に強制をしていなかったとしても箱船のロックがなぜ外からこれほど厳重に掛けられているのか。やはり脱出防止の為に違いない。
即身仏や焼往生が頻繁に行われていた平安時代から鎌倉時代,このような捨身修行はとりわけ殊勝なこととされ,また『解脱』への道程ともなっている。
そんな時代背景を考えると自然と捨身修行を強要するような事実があってもおかしくはないだろう。まるで戦時中の特攻隊のようだ。あるいはジハードだと言って若者達を自爆テロさせるようなものだ。果たしてそれが神仏の御心の望む殉教なのかどうか。
そもそもキリスト教の殉教に自らの意思で死を選ぶことができないのは,人間は神から命を授かった存在であるから,せっかく頂いた命を無駄にするわけにはいかない,というわけでキリスト教は一切の自殺を禁じている。つまり自らの意思で自らの肉体や魂をイケニエとして神に捧げる事はできない。殉教の意味はあくまで神への信心の為に外部的圧力によってその命を奪われたことである。
しかし仏教の捨身は違う。修行によって自らをいじめ抜き,その死を持って仏に自分自身を捧げるのだ。仏教にとって行者の肉体は衆世を救うために仏に祈る為の供物であり,虎の親子つまり民衆に分け与えられた食料なのだ。
これはキリストが信徒の現在を背負ってゴルゴダの丘で処刑されたこととよく似ている。だがキリスト教では自らの死を予期し,民草を救う為に自ら苦行を実践し犠牲となったのはキリストが行ったのに対し,日本の仏教では数多の行者が実践している。これはキリスト教と日本の仏教との死後の身分の違いであろうと思う。
キリスト教は死後も父なる神とキリスト,そして信徒の関係はあくまで父と子であり,この身分差は決して変わることがない。しかし,日本の仏教の場合は,誰もが死ねば戒名が与えられめでたく(?)『仏様』となる。つまり解脱とか涅槃と呼ばれるもので,死ねばみんな『仏様』になるわけだから,たとえ人間でも優れた僧侶であれば捨身飼虎の御業を行うことが出来る,とも考えている。もう一度も言うがキリスト教は恐れ多い神が人間に命を与えているので与えられた命を粗末にすることができないので,他人に奉仕をしたり,命がけで相手に慈愛を与えたりすることは出来ても,自分の意思で以って自分の手で命を絶って殉教とすることができないのだ。
もう一つの理由として,仏教のみ仏は各人の心の内なる存在であることが多い。つまりキリスト教は神が人体の外部に存在するのに対し,仏教の仏は人体の内部に存在していると考えられることが多い。たとえばキリスト教徒は礼拝堂で大勢でお祈りをするが,我々の仏教徒は僧侶でもない限り自宅の仏壇で読経する。
つまり内面的な性格を持つ日本の仏教は,祈りの場を大勢の中に見出すよりも個々の獄少数のコミュニティ,あるいは自分自身の中に見出す。その結果,自分をいじめ抜く苦行や捨身にもつながるのだ。
僕はどの宗教が一番いいとか,どの宗教が一番ダメだとかそんな判断をここでするつもりはない。ただ,布教を続けたり奉仕をしたり,あるいは信仰を守る為に殺されたキリスト教徒,衆世の幸せを願って自ら即身仏になった僧侶,極楽浄土を信じて渡海した僧侶,彼らの強い信念に感服することはあっても,決してナンセンスだとか無駄なことだと思ってはいけないと思った。







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